「ヴェトナム民主共和国」

東アジア(ASEAN+4=中国、韓国、日本にインドを加えた四か国)の文脈では、それだけではあまり妥当性があるとは認識していない。「中間層が民主化の母体になるかどうか」という議論を背景として、それにもっと異なった角度や要素を添加して政治体制移行の筋道を練るほうが、より実現可能性が高くなると考える。政治体制の構想に関しては、中国になくてヴェトナムにだけあるものがある。

ホーチミンが三〇年に及ぶ海外生活で血肉化し、「ヴェトナム民主共和国」として国家体制に具現化した「共和国精神」である。東アジア(ASEAN+4)の諸国を見渡しても、「共和国」を名称に付ける国は多い。インド(インド共和国)、ラオスラオス人民民主共和国)、インドネシアインドネシア共和国)、シンガポールシンガポール共和国)、フィリピン(フィリピン共和国)、ヴェトナム(ヴェトナム社会主義共和国)、中国(中華人民共和国)、北朝鮮朝鮮民主主義人民共和国)がすべて「共和国」を名乗っている。

しかし、その内実はどうであろうか。東アジアにおいて、「共和国」とは、フランスや米国の例を引きながら、王様の首を切って王政を廃止して、「人民の、人民による、人民のための」政治体制を作ること、民衆が主人公の政治体制というのが模範的な理解の仕方であろう。そこには、共和国を支える「個人」という新しい人間観が前提として必要であることまでは考察が及んでこなかった。民主主義理論は豊饒で、あまりの単純化は誤解を招く恐れがあるが、あえて単純化して言えば、ルールの方法としての「民主主義」は、孫文三民主義を例に取るまでもなく、東アジアでも人口に檜炎している。だが、「共和国精神」は正確には受容されていないのが現状であろう。