金融機関の腐敗の始まり

かつてレーガン大統領時代に、1980年、OPEC原油価額を1バーレル104ドルに引き上げた。このためにアメリカ国内の石油・ガス価額もまた高騰し、その探査・採掘フィーバーが起こった。探査にはもともと投機性がある。その曖昧でリスクの多い事業に対して債権を発行し、それに貸借保証書をつけて上位銀行に売りつけるという取り引きが始まった。1982年、原油価額がピークを過ぎたことでフィーバーは鎮静し、リスクが表面化した。

その最大の仕掛け人であるペンスクウェア銀行は、1982年に倒産し、そこから巨額の曖昧なローンを買い付けていたコンチネンタル・イリノイ銀行も危機に陥り、1984年5月に取り付け騒ぎが起こった。7月、連邦預金保険公社は、そのローンのうち最悪のものを35億ドルで買い、さらに10億ドルをつぎ込んだ。そうでもしなければ、数百の金融機関が倒産する恐れがあったと言われる。

金融機関の腐敗はそれでも収まらなかった。アメリカの預貯金取扱機関は、商業銀行と貯蓄金融機関との2つに分類されるが、後者の1つに貯蓄貸付組合がある。1980年代半ばで4,000弱あったが、住宅取得のために組合員から金を集めて設立されたものである。この多くの組合の経営が破綻した。これも石油・ガスに関係がある。ただしその暴騰ではなく、1986年以降の暴落である。そのために1980年代末に、まずテキサス州で不動産市況が落ち込んだ。

貯蓄貸付組合を傘下におさめていた不動産業者が、組合の資金を利用してビルや土地を買い込み、不動産投機にも手を出したりしたために、乱脈経営を続けていた多くの組合が苦境に陥った。さらに不動産事業のための税法上の優遇措置が1988年までに廃止となったので、貯蓄貸付組合の経営破綻は表面化した。

預金額の払い戻しを保証する連邦貯蓄貸付保険公社も、相次ぐ貯蓄貸付組合の破産によって保険基金の残高が不足し、債務超過に陥った。1989年には債務超過額は800億ドルにも達すると予想される事態となった。

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