自家中毒」は激症の心因性の胃腸障害だそうだ。

自家中毒で死ぬ幼児は、最近でこそほとんどいなくなったが、かつては恵まれた家庭に育った若夫婦の最初の子供には決して珍しくなかった。

当時は虚弱体質のせいにされていたようだが、戦後になって、あれは幼児の激症の心因性の胃腸障害、幼児の急性胃潰瘍のようなものであって、その原因は主として親の育児の未熟さから生ずるストレスだ、といわれるようになった。

いまどういわれているのかは知らないが、戦後に自家中毒で死ぬ幼児が激減したのは、乳幼児検診などの母子衛生行政の浸透と女性の高学歴化に伴う育児能力の向上によって、幼児がそれはどのストレスに曝されなくなったからだろう。

それなら自家中毒の子供は明らかに親の未熟さの被害者というべきであって、大事にしていたなどというのは見当違いも甚だしい。

私の場合日常の哺育は、もっぱら母親が見ていたのか、それとも母親の里から来ていた婆ややねえやが見ていたのか、わからないが、母親にちゃんとした能力があれば、駆け出しのサラリーマンの家にねえやに加えて婆やまでいる道理はないから、たぶん後者だったのだろう。

富山湾沿いの漁村の寡婦だった婆やにどれほどの育児経験があったのか、それはともかく、母親がそれなりの注意を子供に対して注いでいれば、瀕死になるまで病気が進むことなどありえなかったのではないか。

それが落ち着いたら、こんどは小児結核にかかる。感染経路はおそらく後に結核死した叔父、当時休学を繰り返しながら旧制高校を出て京大に在学していた父親の弟で、一九三六年のベルリン・オリンピックのラジオを、祖父が借りていた塩原の山荘でいっしょに毎晩夜更かしして聴いた。

幼稚園児が湿気の多い塩原で狭い家に患者とともに暮らして、おまけに夜更かしまでしては、うつらないほうがおかしいと思われるが、これもうつった子供の責任ではない。

結核は、よくなったり悪くなったりしながら戦争をはさんで駒場の寮にいた時代まで続き、脊椎カリエスにもなりかねない、と医学部の教授におどかされるまでになった。