政策決定は政・官の構図と無関係

「政」と「官」という問題の立て方がまちがっているとすれば、官僚論をどのように展開すればよいのであろうか。筆者にはその基本的な軸の一つは、「公」(召回り)と「私」(pri-vate)であると思われる。「私」の利益の追求が主となる民間に対して政府は「公」の利益を追求するのが本務である。この場合、「政」「官」も同様に「公」の側であり、「政」「官」一体としての「公」(public sectorとでも呼ぶのであろうか)が本当に公益を追求し、かつ実現できているかを論じるのが官僚論を展開するときのまず第一のポイントであろう。

そして、ここで重要なのは「政」は決して「民」(private sector)の側ではなく、「官」と同様「公」(public sector)の側に属しているという点である。自由民権運動の延長線上で「政」を「民」と同一視し、「官」と対立させる政治ジャーナリズム的発想は百害あって一利なしである。

それでは「政」と「官」を区別して論議するときの論理的メルクマールとは何なのであろうか。それは、当然、立法と行政ということであろう。立法は選挙で選ばれた「政」によって行われるが、他方、行政は試験のプロセスなどを経てきた専門家である「官」によって担われるわけである。立法と行政を仕切る基本的原理は「分立」であり、「政」が「官」を支配することも「官」が「政」を支配することもあってはならない。

ただ、近代民主主義体制のもとにあっては、「官」の側もそのトップは、選挙によって選ばれた大統領、総理によって占められており、議院内閣制のもとでは閣僚の相当部分も国会議員によって占められることになる。ただ、この場合も、大統領、総理、閣僚は行政府の側であり、「政」と「官」という俗称を使う場合でも「官」の側なのである。当たり前のことであるが、そのバックグラウンドはともかく官僚のトップは官僚なのである。

この意味での、つまり行政としての「官」が政策決定の枢要部分を担うということは、別に日本だけでなく、アメリカでもヨーロッパでも当然のことである。もちろん、選挙のプロセスで政権を担う、つまり行政府のトップを送りこむ政党が公約してきたことが政策の基本になることも、また当然である。