医師や看護婦に患者の苦しみはどこまで分かるか

自分の経験からしても、まして医師の資格のない人が患者になった場合に、医師と対等に対話する目的で独学で専門家に匹敵する医学・医療の知識を得ようとすることは無理であり、無駄なことである。医学はそんな生やさしい学問ではない。しかし、患者や健康人が広く医学的知識を身にっけることは、日本の医療のためにも、国民保健の向上のためにも大変重要なことであり、歓迎すべきことである。

患者の苦しみや痛みの分かる医師や看護婦になるように心掛けることは、医療関係者として大切なことであるといわれており、例外を除き大方の医療関係者は、その目標に向かって努力している。若い臨床医であった頃の私は、自分自身は大きな病気を体験したことのない医師や看護婦であっても、患者の病状について医学的な理解をもち、苦しみ悩む多くの患者に慈しみの気持をもって接し、その人たちの苦しみを何とか楽にしてあげたいと長年にわたって介護しているうちに、患者への思い遣りのある経験豊かな医師や看護婦となり、患者のことがかなりに理解できるようになるものであると信じていた。

ところが、自分が医師として働くのとは立場を異にして、日本、アメリカ、そしてカナダで、国も、病院も、医師や看護婦も違ういろいろの環境のもとで病気をして入院し手術まで受け、患者としての経験を重ねるにつれて、病人である私の苦しみは、たとえ医師であっても看護婦であっても、病人と似たような体験をしたことがなければ、通り一遍の理解しかできないのではないかと思うようになった。しかし、反面、患者としての私は、自分の言いたいことを医師たちが理解できるように伝えなかった自分も悪かったのではないかと反省もした。

患者の立場になって、医師や看護婦をみると、同僚として働いているときとは異なる観点から新しい発見をするものである。まな板の上の鯉ではないにしても、患者というのはまったく受け身の立場にあり、医師や看護婦の指示に従わなければならない。それは、医師や看護婦が想像する以上に患者にとっては嫌なことかもしれないし、精神的な圧迫になっているかもしれない。医師や看護婦は、このようなことにも気を配ることが大切なように思ったものである。

また、患者は、医師や看護婦を頼りにしており、別に用がなくとも、何となく早くべッドのところに来てくれないかなと待つようになる。このような甘えの気持とでもいうべきものが患者になると出てくることを知って、優しい医師や看護婦は、病棟にいるだけで存在価値がある場合もあることがわかった。医師や看護婦が優しく声をかけ、実際には駈けて回りたいくらいに忙しいのに、「何かあったら、遠慮しないで呼んで下さいね」とにっこりしてくれるだけで、患者の気持は明るくなるものなのである。