本質的な形にするための改革

「ハイレペル」委員会の答申に対して私は、なぜ出身国の国益に左右されずにすむほどのハイレペルな有識者たちであるのに、六十年も昔の大戦の勝利国が今なお支配するシステムでつづいている安保理の現状は、抜本的に改めるべきとでもいう、本質論を展開してくれなかったのかと嘆いた。なぜなら国連の職員でもまじめに国連を考えている人ならば誰でも思いつきそうな内容で、わざわざ最高の識者を集めて討論した結論が、「セミーパーマネント」な国をつくるというのだから悲しい。日本語訳だと「準常任理事国」となるらしいが、「セミ」なのになぜ「パーマネント」なのか、私には今でも納得がいかない。

これは、最高の有識者たちであっても、自分たちがほんとうには何を求められているかについての、認識が充分ではなかったからではないかと想像している。言い換えれば、これからの国連のあるべき形を明らかにし、それを実際に動かす力をもつ安保理のあるべき形を提示するのか、それとも実現のほうを重要視し、実現可能と思われる形を提示するのか、である。どうやら「ハイレペル」委員会では、後者の認識に傾いたようであった。

日本の各種の審議会でも、「本質的な形にするための改革」よりも、「現状下でも実現可能な形」の追究のほうが重要視されているように思う。道路公団を例にとっても、日本の道路行政はどうあるべきかの討議よりも、借金をどうするかの計理士水準で終始したようだ。既得権益や省益には無関係でいて道路行政の本質も理解できる能力をもっだ人を集めていながら、なぜこうなってしまうのだろう。私の想像するには、いかに有識者でも、いや社会的な地位も名声も高い有識者であればなおのこと、「カッサンドラ」になりたくないからではないかと思う。本質論を展開しても誰からも聴き容れられないのでは、自分たちに課された役割は果せないとでも思っているのかもしれない。

しかし、本質論にもそれなりの効用はある。審議に集中すればするほど目先のことにしか考えが及ばなくなるのが人間だが、その人間に、真の目的はこれだということを思い出させる効用である。つまり、手段を話し合っているうちについつい「目的」を忘れてしまうからこそ起る「手段の目的化」という弊害を、相当な程度に阻止できるという効用だ。そして、理想を論ずることと本質を論ずることは、同じことではまったくない。

審議会でも委員会でも、この種の会議に招かれるほどの有識者ならば、「カッサンドラ」になる覚悟でもって臨むのが本筋ではないかと思っている。事務方を勤める官僚たちに、本質を見極わめる能力がないからではない。彼らもまたその問題に対処する日々を重ねているうちに、無意識にしろ「手段の目的化」を起しているからで、審議会での本質論議は、問題解決の実際上のルールを敷くという実に重要な仕事を課されているこの人々に、真の目的はこれだということを思い起させるためでもあるのだ。