自身のお産を安全に乗り切ること

しかし実際には、ほとんどすべての妊産婦が産科医や助産婦への受診や助産を希望し、行政もまたすべての妊産婦が産科医療者の管理のもとにあることを奨励しているから、現実には医療対象疾患のような扱いをされている)、出産は女性なら誰もが出会う身体の生理的変化現象として、産婦自身の自助努力と運に委ねられ、産婦たちは、何よりもまずわが身が無事にお産を乗り切れることを願ったのではないだろうか。極端な言い方をすれば、生まれ出るわが子の生命さえも問題にすることはできなかったと思われる。

実際、疫病や事故、あるいは食糧事情や衛生状態の悪さなとがら、当時の乳幼児死亡は大変高率であった。また、その大半は新生児期(生後四週未満)に死亡している。それは出生時のトラブルだけでなく、胎児期の栄養不足に起因した新生児の体力や抵抗力の不足、あるいは一般の衛生状態の悪さから起こる感染症への罹患などが原因であろう。人々は「七歳までは神の内」と言い、やっと生まれたにもかかわらず亡くなってしまったわが子には、「まだこの世のものではなかったのだ。神さんのところへ帰ったのだ」とあきらめたし、生まれても育てられない子(間引き)には、「一時的に神さんのもとへお返ししたから、育てられる時になったら、もう一度生まれてきておくれ」と祈った。

妊産婦の死亡もまた、このような状況下で深刻であり、まずはわが身を守ることが先決であった。産みやすい方法を教えてもらい、なるべく体力の消耗を防ぎ、スムーズにお産を終了させること。誰からの援助も期待しないで、自分の身体と相談しながら、自分の身体に合う形で、安全にお産を乗り切ること。産婦がそれらを第一義とせざるを得なかったのは当然のことであろう。

そのための、先人たちの知恵として伝えられた具体的な出産姿勢が座産であり、援助システムが近隣女性たちのお産助け合いネットワークや、夫を筆頭にした家族全員のお産参加であった。また誰をも等しく加護してくれる神仏の力添えは、当時の人々にとって大きな励ましであり、よりどころであったから、家々に代々伝わる産の神様(シオガミサマ)の依代(掛軸)の前に焼塩を供え、小さな子どもさえも母の安産加護を願って手を合わせた(大洲市上須戒)。また山伏にはらい浄めてもらった「早めのお護符」を体内に呑み、その強い霊験によって、早々にお産が無事終することを信じた(大洲市上須戒、高知県祷原町)。

さて、産婦が、自身のお産を安全に乗り切ることをまず第一義に考えたとはいえ、それがそのまま、生まれ出る(あるいは出た)わが子の安全を軽視したということではなかった。なぜなら、産婦が自身の身体にとって無理なくスムーズな産みやすい方法によって安全に早くお産を終了させることは、つまり体内の胎児にとっても、無理なく、安全に早く母体外に出てくることであったからだ。しかし二〇世紀初頭から、お産は産婆に任され、その助産の基本は、いかに産婦が安全に産み終えるかということよりも、まずは、いかに安全に子どもを誕生させるかに重点がおかれた。