戦後の新社会の出発

刺激的な毎日でしたね。なにしろ、理屈でものを考えなくちゃならない。級友も個性的な人が多かった。ただ、教えられる内容は旧法だから、意欲いっぱいの若い女性にとって気持ちいいはずがない。「女は婚姻によって夫の家に入る」だの、「妻は無能力」だの。「なによ」ってな思いはありましたとも。そのうち戦況が厳しくなり、男子学生は軍事教練、女子は救護訓練ばっかりになりました。四四年秋にはとうとう、半年の繰り上げ卒業で熊本に帰ることになりました。「弁護士になる」という夢はいったんお預けです。悔しかったですよ。帰郷の列車の中で、「いつかきっと、この鉄路を戻って初志を貫いてやる」と心に誓ったものです。あの時の気持ちは、今も忘れられません。

戦争による繰り上げ卒業で戻った郷里では、熊本地裁に書記官として勤めました。大学からの紹介状があったのに、所長は「女性を採用していいものか」と当時の人事規則、文官分限令を調べたようです。「特に女性はいかんという記載はない。よかろう」と判断され、期せずして初の女性書記官となりました。この時期は男性が出征して人手が足らず、あちこちの職場で「女性第一号」が出現していました。モンペのまま寝起きするような状態で四五年の熊本大空襲を生き延び、学徒出陣から病を得て帰郷中の兄、一郎も含めて母子五人、どうにか終戦を迎えました。「新しい時代が来た」という思いはありましたが、それからがまた、たいへんでしたね。兄と二人、阿蘇の村に戻って慣れない農業です。かたわら、私は裁縫に精を出しました。

当時、若い娘が東京の学校に行くといえばたいていが裁縫学校のことで、上地の人は私もそうだったと信じて疑わない。みそ、しょうゆと交換で仕立物を頼みにくる。当方は手持ちの婦人雑誌の付録本を見ながら必死です。放出品の軍用毛布やキャラコのシーツなどが持ち込まれました。縫った足袋は百足以上。そのころ、終戦の解放感からか阿蘇周辺では素人演芸会が頻繁に開かれ、出るのに白足袋が必要だったようです。復員した男性の結婚式も続いて、にわか仕立屋はけっこう腕を上げました。

そんな暮らしの中、一日遅れで届く新聞は、戦後の新社会の出発を次々と報じていました。そして四六年十一月に新憲法が公布されました。「世の中が変わる。こうしてはいられない、なんとしても明大に戻ろう」と決意しました。兄が山林を売りで作ってくれたお金マ上京を果たしたのは、翌年の春です。三十時間以上も立ち通じの満員列車でした。中野の三畳一間に陣を構えての学生生活は充実してましたよ。なにしろ新憲法の精神は「国民主権」「基本的人権」「恒久平和」ですからね。級友も皆、理想に燃えてました。

四八年に、遅れて上京した兄とともに最後の「高等試験司法科試験」を受けました。「高文」と言い習わしていましたが、翌年から「司法試験」に変わるものです。「刑事訴訟法口述試験は旧法で受けますか、新法で受けますか」と聞かれたのを覚えています。もちろん新法で受けました。ちょうど時代の境目だったんですね。長男長女を送り出した母は、裁縫と書道教室で生計を立てていました。「フタリトモコウブンゴウカク。ハハウエニカンシヤス」という電報が、私たち兄妹の親孝行となりました。復員せぬ夫との離婚手続き続々明大を卒業した五〇年の秋、同級生だった良堅と結婚しました。ともに司法修習生でした。その年の六月、映画「きけ、わだつみの声」を二人で見に行った時のことです。戦没学徒の物語に衝撃を受けて外に出たら、「朝鮮戦争勃発」の号外が配られていました。「明日をも知れない」という思いが強まって、結婚を急ぐ気持ちになったのね。