農民の反乱を収拾できなくなる

七八年四月、ダウトを暗殺して、タラキがひきいる人民民主党が政権を獲得したものの、内部抗争が激化し、七九年九月、最急進派のアミンがタラキを殺害して大統領になった。ところが、土地改革にたいする農民の反乱を収拾できなくなり、政権の存続そのものも危うい状態となったため、七九年のクリスマスーイヴについにソビエト軍が出兵し、まずアミンを殺害して大統領を穏健派の人物にとりかえた上で、反乱の鎮圧にとりかかった。

それから一〇年ちかく、八九年二月に引き揚げるまで、アフガニスタン全土にひろがった民族抵抗勢力と、イスラム各国から参加した「義勇兵」から成るムジャヒディーン(イスラム戦士)によるゲリラ戦に、ソビエト軍はほとほと手を焼いた。最高のソビエト軍の兵力は一一万五〇〇〇(のべで六五万)に達したが、国土の二〇パーセントしか制圧できなかった。ちなみに、アフガエスタンの面積は六五万二〇〇〇平方キロメートルで、日本の七倍である。

戦士をかくまっているとみた地域にたいして爆撃と砲火を集中する焦土作戦や、空からばらまかれる無数の小型地雷(一千万個にのぼり、今ものこる)をのがれて、となりのパキスタンやイランに避難した難民は五〇〇万をこえた。アフガユスタン側の死者は一三〇万、ソビエト軍の戦死者は一万四五〇〇とされる。

ロシア兵の四分の三は肝炎、三分の一はチフスにかかった。アフガユスタン帰還兵(アフガーツィとよばれる。単数形はアフガーニェツ)には、いまもアル中や精神障害に苦しむ者が少なくない。元陸軍大佐のヴィークトルーバラーネッツは、つぎのように述懐する。「アフガン人を征服するには焦土戦術か、補給を絶つ餓死作戦しかない。そうしないかぎり、原始的軍隊も近代的軍隊も、巨大な挽き肉機に巻きこまれたようにしてつぶされる」。

なぜソビエトはこの泥沼にはまったか。共産政権誕生直後からの一四回におよぶ救援要請を、ソビエト共産党政治局のなかでアフガエスタン政策をとりし切っていたグロムイコ外相、ウスチーノフ国防相、アンドローポフKGB議長のいわゆる「アフガユスタンートロイカ」ははねつけてきたが、ギリギリになってブレジネフ書記長と長老のスースロフ政治局員を交えた会議の席で、ソビエトたのむに足らずとみたアフガン側かアメリカ(さらには中国)に寝返るのを恐れて派兵にふみ切った。この大誤算は、長い一党独裁のため政権中枢の政治的知能が低下していたことの現われで、ソビエト自壊への最後の曲がり角になった。