反共の軍

自衛隊創設過程におけるこのねじれが、「一九五〇年以後に始まる長く激しい再軍備論争」示林直樹、前掲書)のもととなったのは当然だった。九条をめぐる議論が神学論争などと称されるいわれはない。論争は最高法規をねじ曲げる権力の濫用に対する、具体的であたりまえの異議申し立てであった。戦後生まれの安倍首相が「戦後レジームからの脱却」をいうのであれば、なによりさきに、史実をすりかえた保守政権の不誠実さと、創設時から自衛隊に遺伝形質として受けっがれてきた従属的な対米関係のルーツのほうが直視されるべきだろう。自衛隊は、アメリカの冷戦政策の下で、国民の必要性認識と同意なしに、すなわち「何のための組織か」という「建軍の本義」なしに創設された。その体質は、以後も変わらない。

一九五二年四月、「サンフランシスコ平和条約」が結ばれた。これで六年八ヵ月に及んだ日本の占領状態は解かれた。だが、おなじ日に調印された日米安保条約(旧安保)により、「警察予備隊」は「保安隊」(陸)と「警備隊」(海)に強化・改編され、再軍備の段階を一歩進めた。安保条約の前文で「日本国が、直接及び間接の侵略に対する自国の防衛のため漸増的に自ら責任を負うことを期待する」と防衛力強化を約束させられていたからである。あわせて「占領軍」から「駐留軍」に名称変更した在日米軍が、基地の大部分を継続して使用することも認められていた。再軍備と安保条約は、西側諸国とのみ講和条約を結び独立を回復する「単独講和」の条件、つまりは対米公約であった。ここから「日米安保の時代」がはじまる。

政府は、保安隊と憲法第九条の関係について、警察予備隊時代の「純然たる治安組織」という見解を改め、次のような合憲論を展開した(吉田内閣統一見解、一九五二年一一月二五日)。憲法第九条第二項は、侵略の目的たると自衛の目的たるとを問わず、「戦力」の保持を禁止している。右にいう戦力とは、近代戦遂行に役立つ程度の装備、編成を具えるものをいう。(中略)保安隊および警備隊は戦力ではない。これらは保安庁法第四条に明らかな如く、(中略)その本質は警察上の組織である。従って戦争を目的として組織されたものではないから、軍隊でないことは明らかである。また客観的にこれを見ても保安隊等の装備編成は決して近代戦を有効に遂行し得る程度のものでないから憲法上の「戦力」に該当しない。

このように警察予備隊時代の合憲解釈は微調整された。警察力より上ではある。それでもまだ、「人命及び財産を保護するため特別の必要がある場合において行動する部隊」(第四条)でしかない。保安隊に近代戦の遂行能力はないので、戦力にはあたらない、とする解釈である。しかし、この見解も、わずか二年しかもだない。一九五四年に「自衛隊」が創設されると、航空自衛隊のジェット戦闘機を含め、「近代戦遂行能力」を持つことは、誰の目にも隠せなくなった。そこで、(政府は、昭和二九年コー月以来は、憲法第九条第一一項の戦力の定義といたしまして、命略)近代戦争遂行能力という定義はやめております」と戦力定義の再修正が打ち出された憲法制局長官答弁、参議院予算委員会、一九七二年二月二百)。

そして、これまでの定義にかわって「戦力とは自衛のための必要最小限度を超えるもの」であり、自衛を超えない範囲であれば憲法の禁止するところではない、という解釈の台頭。それによって「自衛隊は合憲」の解釈に落ちつくのである。この二転三転する政府の戦力定義のほうこそ、現実から逃避し遊離した観念論の弄びという意味で神学解釈の名にあたいする。とはいえ、陸海空の三部門からなる自衛隊に成長したことにより、安保条約の下での対米軍事協力は実質的な内容を帯びてくる。一九五五年から、海上自衛隊と第七艦隊とのあいだで「掃海特別訓練」が、五七年からは「対潜特別訓練」が定期的に実施されるようになる。自衛艦隊は米極東海軍の「対潜部隊」に位置づけられた。想定対象は、ソ連太平洋艦隊および米軍と北朝鮮軍が休戦状態のままにらみ合う朝鮮半島であった。