アジア工業化がもたらすもの

一九七〇年代になって、変動相場制への移行が行なわれた。しかし、資本の国際間移動は、自由ではなかった。したがって、製造業の移転という問題は生じなかったのである。八〇年代になって、資本輸出国の側では為替管理が緩和され、資本輸入国の側では外資の導入が認められるようになった。こうして、資本が国境をこえられるようになった。そのために、これまで述べたような変化が生じたのである。したがって、変動為替レートで資本の国際間移動に制約がない現在の世界経済の枠組みのなかでは、この動きは止められないということがわかる(実際、製造業の拡散現象は、中国で止まったわけではない。最近では、ベトナムやインドにも波及している)。

アジアの工業化は、つぎの三点において、日本経済に大きな影響を与える。第一に、製造業の製品に対する巨大なマーケットが誕生する。工業化の過程においては、これまでもそうであったように、日本が供給する資本財や中間財に対する需要が増える。これは、日本の製造業にとって明らかにプラスに働く。

さらに、所得水準の上昇にともなって、耐久消費財に対する需要も増えるだろう。これは、一二億人という膨大な人口を抱える中国の場合に、とくに大きな意味をもつ。中国が大衆消費社会に入れば、乗用車や電化製品などの工業製品に対して膨大な需要か発生するだろう。第二は、投資先としての意味だ。すでに述べたように、八〇年代後半以降の円高にともない、生産拠点のアセアン諸国への移転が進んだ。今後は、中国が投資先、生産拠点として重要な意味をもつことになる。

企業の立場からみれば、安価で優秀な労働力が確保できるので、これは望ましいことだ。投資家からみても、高い収益が期待できることは歓迎すべきことだ(ただし、労働者からみれば、生産拠点の海外移転にともなう雇用減少という問題が発生する)。第三は、これらの国々が、製造業において日本の競争者となることだ。これは、日本に対して、深刻な問題を提起する。造船業や鉄鋼業などでは、すでに日本は韓国に遅れを取っている。パソコンでも、台湾製品の躍進は著しい。今後、乗用車やエレクトロニクスなど、これまで日本のリーアイソダーインダストリーと目された産業において、日本の製造業がアジア諸国に追い越され、国際市場のみならず国内市場でも日本製品が駆逐されてゆくだろう。

キャッチ・アップのダイナミズム

長嶋氏が巨人軍の現役選手であったのは一九五八年から一九七四年までの一七年間であったが、この間は奇しくも日本経済の驚異的な高度経済成長時代にほぼピッタリ一致するのである。ちなみに、この長嶋時代の年平均実質経済成長率を計算すると九・三%となる。それ以前は平均七%ていどであり、長嶋氏がやめてからは四%以下になるのである。さらに名目成長率で言えば、長嶋時代にはなんと年平均一五・九%にも達していたのである。

このような急激な経済成長は先進諸国ではまず考えられない。今日では世界を見わたすと中国やアジア諸国の一部でこうしたハイ・ベースの成長が起きている。経済水準の低い国や地域がテイクーオフし、先進国をめざして急速にキャッチーアップする過程でこうした成長が実現する事が多い。日本は第二次大戦前にすでに相当な工業化水準に達していたが、敗戦で一度ドン底に落ちた。しかしその廃墟の中から立ち上って復興と再建を果たし、さらにその勢いに乗ってアメリカなど先進諸国をめざして急速なキャッチーアップをつづける過程でこの驚異的な高度成長を実現したのである。

敗戦後、すべてを失った荒廃の中で、物資や食料の欠乏に苦しみ、貧窮と闘っていた日本人の眼には、アメリカ人の生活は夢のように見えたに違いない。誰もがアメリカに追いつきたい、アメリカ人のような暮しがしてみたいと思ったとしても不思議ではない。今日、日本の近隣の低所得国の人々にとって日本の生活がそのように映っているかもしれない。

つらい苦労にも耐えながら日本に出稼ぎに来る人々を駆りたてている思いには、おそらく当時の日本人のアメリカを見る眼と共通のものがあるかもしれない。私と同世代のある評論家は「泳いでもアメリカに渡りたかった」と当時の若い頃の思いを語っているがその気持は私にもよく判る。人々はアメリカを夢み、アメリカをめざしてガムシャラに働いた。

産業はやがて復興し、経済は成長を加速し、人々の生活は確実に良くなっていった。寒い冬に暖をとるのに、多くの家庭では火鉢やコンロしかなかった。それもまともな石炭や炭ではなくクズ石炭の粉を固めた煉炭という代用物をも使っていた。しかし、人々には一生懸命働けば生活は必ず良くなる、明日は今日よりも、来年は今年より確実に良くなるという希望があった。煉炭火鉢がコタツになり、電気ストーブや石油ストーブになり、やがてクリーンーヒーターに、そして全室暖房になっていった。

圧倒的な勢力となった軍部

このクーデターの失敗により、PKIは壊滅的な打撃を受けた。また、三者間のバランスの崩壊を危惧して、さいごまでPKI擁護の立場をとりつづけたスカルノも威信を失墜させた。そうして、インドネシアの政治舞台におけるほとんど唯一のパワーグループは、軍部のみとなった。この軍部を掌握して。一九六八年に大統領となったのがスハルトである。彼の強権的統治は、以来、現在にいたるまでつづいている。

九・三〇事件後、圧倒的な勢力となった軍部は、行政府の権限を手中に収めた。軍によるインドネシアの行政支配と国家運営がここに開始されたのである。とはいえ、これによって政党政治のスタイルが完全に消え去ったわけではない。スハルトと軍部は、みずからの政治支配の正統性を国内外に訴えるためにも、政党政治の旗をおろすことをしなかった。

しかし、軍部支配に反旗をひるがえす政党の存在は許さず、陰に陽に各政党に圧力を加えた。同時に、旧来の政党以外の親軍部国民集団を組織化して、「ゴルカル」と通称される、国民各層からなる「翼賛組織」を創成し、これを強大な組織とすることに成功した。これが「与党」となって、軍部が掌握する政府を支持する国民的運動の母胎となっていった。

企業中心主義との矛盾

こうした矛盾ぱ、けっして「消費者密着」といったことにのみ関わるわけではない。「大都市集中」「地方不在」型の経済発展ではなく、地域間でバランスのとれた、より分散的な日本経済を構築するという課題においても、同様の問題が発生する。なぜなら、それは、「日本株式会社」といった言葉に象徴されるような中央集権的な行政(官僚)機構と、それに結びついた大企業の管理中枢機構によって、トップダウン方式で効率的な経済運営を進めてきた従来のやり方に、大幅な変更を迫ることになるからである。

地域経済の自立的な発展を促していくためには、中央から地方への大幅な権限委譲が不可欠であり、したがって中央統制型の規制を大胆に緩和していくことが必要になるが、他方では、同時にまた「地方の利益」を尊重し、バランスのとれた地域間関係を重視して企業活動ヘー定のコントロールを加えることも必要になる。

巷間、前者の「規制緩和」の必要ばかりが強調されているが、企業は同時に、地域への貢献とか、地域への密着度を高めるといった観点から、自由な利潤追求へのそうした制約を許容せざるをえないことをも認識しなければならない。そうしたことを「非効率」として拒否していては、日本経済のバランス回復は難しい。

また、奥行きのある安定的な消費経済社会を創出するためには、現在のような「法人優位」のシステムを是正して「個人」がより尊重される社会への転換が必要である。しかし、そのためには企業の内部蓄積を最優先した従来の所得配分の在り方を変える必要があるだけでなく、企業は積極的に労働時間の短縮をすすめて「自由な時間」を個人に与え、またいわゆる会社人間ではない自立的で多様な価値観を持ちうる個人を、積極的に許容していくことが必要になる。これは、日本産業の強さの源でもあった日本的企業社会を企業自らの手で突き崩していくことにもなるが、しかしこの過程なくして日本経済は現在の混沌状態を抜け出して新たな発展段階へと移行することはできない。

反共の軍

自衛隊創設過程におけるこのねじれが、「一九五〇年以後に始まる長く激しい再軍備論争」示林直樹、前掲書)のもととなったのは当然だった。九条をめぐる議論が神学論争などと称されるいわれはない。論争は最高法規をねじ曲げる権力の濫用に対する、具体的であたりまえの異議申し立てであった。戦後生まれの安倍首相が「戦後レジームからの脱却」をいうのであれば、なによりさきに、史実をすりかえた保守政権の不誠実さと、創設時から自衛隊に遺伝形質として受けっがれてきた従属的な対米関係のルーツのほうが直視されるべきだろう。自衛隊は、アメリカの冷戦政策の下で、国民の必要性認識と同意なしに、すなわち「何のための組織か」という「建軍の本義」なしに創設された。その体質は、以後も変わらない。

一九五二年四月、「サンフランシスコ平和条約」が結ばれた。これで六年八ヵ月に及んだ日本の占領状態は解かれた。だが、おなじ日に調印された日米安保条約(旧安保)により、「警察予備隊」は「保安隊」(陸)と「警備隊」(海)に強化・改編され、再軍備の段階を一歩進めた。安保条約の前文で「日本国が、直接及び間接の侵略に対する自国の防衛のため漸増的に自ら責任を負うことを期待する」と防衛力強化を約束させられていたからである。あわせて「占領軍」から「駐留軍」に名称変更した在日米軍が、基地の大部分を継続して使用することも認められていた。再軍備と安保条約は、西側諸国とのみ講和条約を結び独立を回復する「単独講和」の条件、つまりは対米公約であった。ここから「日米安保の時代」がはじまる。

政府は、保安隊と憲法第九条の関係について、警察予備隊時代の「純然たる治安組織」という見解を改め、次のような合憲論を展開した(吉田内閣統一見解、一九五二年一一月二五日)。憲法第九条第二項は、侵略の目的たると自衛の目的たるとを問わず、「戦力」の保持を禁止している。右にいう戦力とは、近代戦遂行に役立つ程度の装備、編成を具えるものをいう。(中略)保安隊および警備隊は戦力ではない。これらは保安庁法第四条に明らかな如く、(中略)その本質は警察上の組織である。従って戦争を目的として組織されたものではないから、軍隊でないことは明らかである。また客観的にこれを見ても保安隊等の装備編成は決して近代戦を有効に遂行し得る程度のものでないから憲法上の「戦力」に該当しない。

このように警察予備隊時代の合憲解釈は微調整された。警察力より上ではある。それでもまだ、「人命及び財産を保護するため特別の必要がある場合において行動する部隊」(第四条)でしかない。保安隊に近代戦の遂行能力はないので、戦力にはあたらない、とする解釈である。しかし、この見解も、わずか二年しかもだない。一九五四年に「自衛隊」が創設されると、航空自衛隊のジェット戦闘機を含め、「近代戦遂行能力」を持つことは、誰の目にも隠せなくなった。そこで、(政府は、昭和二九年コー月以来は、憲法第九条第一一項の戦力の定義といたしまして、命略)近代戦争遂行能力という定義はやめております」と戦力定義の再修正が打ち出された憲法制局長官答弁、参議院予算委員会、一九七二年二月二百)。

そして、これまでの定義にかわって「戦力とは自衛のための必要最小限度を超えるもの」であり、自衛を超えない範囲であれば憲法の禁止するところではない、という解釈の台頭。それによって「自衛隊は合憲」の解釈に落ちつくのである。この二転三転する政府の戦力定義のほうこそ、現実から逃避し遊離した観念論の弄びという意味で神学解釈の名にあたいする。とはいえ、陸海空の三部門からなる自衛隊に成長したことにより、安保条約の下での対米軍事協力は実質的な内容を帯びてくる。一九五五年から、海上自衛隊と第七艦隊とのあいだで「掃海特別訓練」が、五七年からは「対潜特別訓練」が定期的に実施されるようになる。自衛艦隊は米極東海軍の「対潜部隊」に位置づけられた。想定対象は、ソ連太平洋艦隊および米軍と北朝鮮軍が休戦状態のままにらみ合う朝鮮半島であった。

自給自足できる国はわずかである

世界の製造業を見渡して、どこでどの企業がどんな性能の部品を製造しているかという情報を握っていれば、それを念頭において、完成品の設計が出来る道理である。大衆的な製品であれば、これで十分に競争力のある商品を開発できる。

「日本経済の混迷を解く大予言」で、私はその歴史的意味を述べたが、このような設計手法は、とりわけ台湾の企業が得意である。二一世紀の製造業で、このような傾向が加速されることは疑いない。そういう時代になると、国産品愛用運動などは無意味となってしまう。自分の国で完成品が設計され、組み立てられたとしても、その部品や素材の多くが外国製品であれば、それを愛用したところで、外国製部品や素材を愛用していることに他ならないからである。
 
航空機でも、コンコルドボーイング767あたりから、アメリカ、イギリス、フランスなどでも、もう一国の企業では、その膨大な開発費を賄えず、共同開発の段階に入っている。今でこそ中国は、マグダネルーダグラスのMD90シリーズの下請け加工をやっているが、それを通じて技術力を高めており、遠からず世界の新しい旅客機の共同開発に参加するようになるだろう。
 
エネルギー資源でも食糧資源でも、自給自足できる国はわずかである。日本のエネルギーや食糧の自給率はきわめて低く、リスクは高いが、今では日本だけがとりわけリスクを背負っているわけではない。シンガポールでは、主食や石油はむろんのこと、野菜や肉・魚類、水さえも、すべて輸入に頼っているが、二一世紀の世界では、発展途上国の工業が発展し生活水準が向上し、食生活が多様化するにつれて、多くの国がシンガポールのような状態に近づいて行くことだろう。

失業率低下と財政黒字

米国経済の優位は、特に日本との対比によって際立つたかたちで表れている。わずか十年前まで「アズ・ナンバーワン」の高みから「怠け者の大男」と、米国を見下すようなそぶりを見せていた日本に対して、劇的ともいえる再逆転を演じているからである。

何より。失業率が下がっている。すでに九七年には、当時三・五パ−セント程度だった日本より失業率の低い州がネブラスカ(二・三パーセント)など十二になっていたが、九九年には全米平均で四・ニパーセント程度。

九二年のピーク七・五パーセントから七年連続の低下(二〇〇〇年一月は四・〇パーセント)で、三十年ぶりの低水準である。二〇〇〇年二月現在四・九パーセントの日本と完全に逆転してしまった。この失業率低下と、インフレ率低下が並行して進んでいるところに、今日の米国経済の強味がある。

加えて、財政の黒字への転換。七〇年代から八〇年代にかけて米政府は、毎年のように財政赤字の黒字転換の目論見を予算教書とともに提示した。しかし黒字転換のめどとされた年度は、毎年砂漠の逃げ水のように先へ先へと送られていた。つまり米国民と世界に向かって、毎年嘘をついていた。

しかし、米国財政はついに九八年、二十九年ぶりに黒字に転ずる。二〇〇〇年二月七日、米議会に提出された二〇〇一会計年度(二〇〇〇年十月−ニ○○一年九月)の予算教書に付された長期見通しによれば、黒字を毎年債務削減にあてていくことによって、二〇一三年には二〇〇〇年現在約三兆六千億ドルに達している累積赤字をゼロにするという。

円をますます引き離す国際通貨ドル米国経済力の優位を総括的に示すのは、米ドルが文字通りの世界通貨となったことである。七一年八月十五日の「ドル・ショック」は、米国経済の地盤沈下を反映し、西独や日本の経済力伸長を両国通貨の切り上げというかたちで顕現するものだった。

第二次大戦後の国際通貨体制(ブレトン・ウッズ体制)の基軸となっていた金・ドル平価システムは、ドルの対金価格が維持できなくなり、「いつでも金との交換に応ずる」という金・ドル交換性が放棄されたため崩壊した。七三年三月以降は、いわゆる「変動制」に移行して今日に至っている。